昭和四十六年二月二十七日
御神訓 一
一、信心は本心の玉を研くものぞや。
一、まめなとも信心の油断をするな。
信心は本心の玉を研くものぞや、私共は信心の・・平穏無事であるとか、元気であるとか云っても信心の油断をするなと。
何でもないとそれに馴れて信心の油断をするもんですね。
信心は本心の玉を研く、しかも油断をすなと云うことは本心の玉を研くことに油断をすなと云うことであります。本心の玉を研くものである。信心はおかげを頂くものであるとは教えてない。信心は本心の玉を研くものである。しかも信心の油断をすなと云うことはどんなにおかげを頂いとっても、本心の玉を研くことに油断をすなと云うことになる。まめなとも信心の油断をすなと云うことは本心の玉を研くことに油断をすなということですね。
今朝はですからここの二か条のところから聞いて頂く訳であります。本当に信心は本心の玉を研くものだと云う風に思い込みが出来ておるじゃろうかと、そこで研くと云うことでも、やはりそこに何でも同じですけど、有難さとか楽しみとか楽しいとか云うものが、なからなければ出来ることじゃありません。
いわゆる研く楽しみと申しましょうか、研けば研く程光になって表れて來る。そこで光になって現れて來ると言うことは、どういう事かと云うと、おかげになって現れて來ると言うこと。
現れる、光になって。だからおかげを頂くと言うことは神の比礼、御比礼とも言う。神の御比礼に浴すると云うことはおかげを頂くと云うことでる。だから本心の玉を研くこと、しかも油断なく、しかも研く事が楽しうなって来たと云う。研くことが有難うなって来た。そこから研けば研いただけの光りを放つことになって來る。その光そのものが私はおかげであると思う。
だから、私共が事毎に研く材料と云うものを、いわゆる研く材料にしなければならないと思います。
きつい、辛い思いをする場合でも、それは研く材料である。腹が立つ場合でもそれは研く材料である。
こんなにおかげ受けてよかろうかと思う様な時がありますね。そういう時でも油断をすな。そういう時に油断し勝ちですから、信心も出来んのにこんなにおかげ頂いてと云うときでも尚更研いていく。もうあらゆる機会を据えては研くこと一つに絞れば良い訳であります。
信心は本心の玉を研くこと。信心は日々の改まりが大事と御理解もございますが、例えば、腹が立つとか、勿論これは本心の玉を研くと云うことになって来ますと、きつい、辛いと云う時、やはり本心で自分と云うものを見て行く。見極めて行く。そこから相済まぬ自分と云うものを発見する。そこからそこが改められて改まる。云うならば、自分の心にこの様な汚いものが付いて居ったと云うか、汚れておったと云うことに気が付く。
だから、その改まると云うことは汚れを落とすことだ。汚いものを放して行くことだと云われております。そしてそこから磨きをかけて行こうと云うのである。汚れたまま研いたところで垢抜けせん。いわゆる垢光り、汚れたまま拭いても光は出ない事もないけれども、汚れそのものが光だすのでありますから、やはりその汚れを一ぺん取って研かなければならんと云うことになる。
すっきりとした心が研き出されて來る。その研き出されて來る楽しみ、喜び、自分の心が有難うなって來る。自分で自分の心が男鹿みたい様な時がある。これは研く楽しみと云うものが身に付いてきた証拠です。但し、自己満足と云うのがある。そこの所は良く考えて自分だけが有難がっておると云う自己満足。そんな人がありますよね。
動きも何にもない。信心をさせて頂いて居る、いわゆる有難や、勿体なやと云うておるけれども、それにはおかげが一つも伴っていない、それは自己満足だからです。云うならば、動かない電車に乗って居るようなものである。電車に乗っておる事だけは間違いないけれども、全然目的には進んじゃいない。自分は電車に乗って居ると云う満足、自己満足。そして有難い。勿体ないと云うておるのはおかしいし、それには光が伴わない。いわゆるおかげが伴わない訳です。だから、私共はその動きと云うものを感じる信心じゃなければいけん。
云うならば動きのある信心、云うならば生きた信心。そこから頂ける有難い、勿体ないである。信心の光、私達は信心の光と云うことはおかげだと申しました。
それならね、そういう本心の玉を研くことに油断をせず、いやそこんところを油断をするところが、そのことがいよいよ楽しうなり有難うなって行くと云う様な生き生きとした信心がなされる時に光が出るとおかげが伴う。いわゆるおかげが伴う、頂けると云う風に申しましたが、そのおかげはどういう様になって現れて來るかと、そのどういうおかげになって來るかと云うところを今月は一つ聞いて貰いたいと思うのです。ぎりぎりの焦点はそこなのです。
今迄申しましたことはそこんところを生かして行く為にと云うて良い訳です。
本心の玉を研くと云うことはどういう風にして研いて行くかと、しかも研くことに油断をせずに、いやそこに楽しう、容易う有難味を感じながら研いて行くと云うこと。
信心とはおかげを頂くことではなくて、信心とは本心の玉を研くと言うところにすっきり焦点が置かれなければならん。そこから光が出て來る。光を即おかげと云う。そういうおかげとは、どういうおかげかと自分が願うておったおかげが成就すると云った様な事ではなくてね、云うならば、願い以上のおかげが展開して來る。
そのおかげの範囲の広さに驚くばかりのものを感ずる。そういうおかげ、そういう光がです、光がパーっとこういう十燭光なら十燭光の百畳敷なら百畳敷のお広前に灯る時と云いますか、それは中心を最高の明るいところとして、やはり百畳の隅々までぼんやりであっても、その光と云うものは万遍なく光照らす様なものだ。思い掛けぬところまで光出されて來ると云う。おかげと云うものは、光と云うものはその様なもの。自分の気の付かないところまでも、神様はおかげを下さる訳です。
それでどうしても、信心は本心の玉を研くものだとあらゆる機会にそれを研く材料に、そして反省させて頂くことが、改まる事であるならばそこんところをいよいよ本当のものにして行こうする姿勢が研いて行くことである。研くことに依って光を放つことは何でも同じ事。その光そのものがおかげである。
だが、そのおかげと云うか、どういうおかげになって來るかと云うと、電気でもローソクでも良い、その光と云うものは、その光の大きさに依ってその光の範囲がね、明るくなって行く。その光の届く限りが明るくなって行く。
だから、より大きな光を頂くことに、いや頂かにゃならんと云うことになってくる訳です。
昨日、私は或方達がお参りして来た事に対してこんなお話を致しました。天衣無縫と云うことがありましょうが。天衣とは天の衣と書いてある。無縫とは縫目のないと書いてある。
金光様の御信心はね、天衣無縫のおかげを頂いて行くことですよ。ところが、一般で天衣無縫を使う場合、云うなら自然に逆らわない、成るがまま、有るが侭の生活をしておる、いわば無欲旦々とした生き方をしている人の事を、あちらは天衣無縫だと言いますね。例えば、山下清さんと云う少し頭がおかしいという絵書きさんがおりましょう。山下清、あの人の場合なんかを表現するとき天衣無縫だと云う。欲得じゃない。絵を書くことはそしてその生き方が無欲旦々としておる。それこそ日本の端から端まで汽車のレールの中さえ歩いて行けば必ず南の方を向かって行けば鹿児島へ着く。北の方へ向かって行けば日本の北の端に行けれると云った様な簡単な考えで歩いて居る。行かれると云うことですね。トンネルの中でも何でも歩いて行かれる。普通で出来ることではない。まあ一つの放浪癖と云った様なものがそうさせておる。金がなくなったら絵を書く。自分の絵が幾らになるから書き、貯めようと云った様な人間心を使わない。実に天衣無縫の生き方だと申します。けれども私は思うのに天衣無縫の生き方にはね、天衣無縫のおかげが現れねばいけんと云うこと。
それが本当の意味に於いての天衣無縫の生き方と云うことになる。その天衣無縫の生き方にならせて頂くと言うことが、本心の玉を研かなければ出来ぬ事です。天衣無縫、我情我欲があっては研いたとは云えません。
只、研いて行けば行く程に我情と云うものは我欲と云うものは取れて行くです。
只、あるものは神様の懐に有るんだと。わが身が神様の懐の中に有るんだと云う実感とその喜びが在るだけ。それが有難いのである。楽しいのである。だから、ああ在りたい、こう在りたいと云うのではないのです。もう神様に委ね切っていると云うこと。生活、しかも油断することなく本心の玉を研くことに務める。
だからそれをこと在る度に取り組むと言うことはどういう事かと云うと、とりも直さず自分の我情を取り除くことであり、我欲を取り除いて行くことなんです。
自分の垢を取って行こうと云うことは、そこにわが身は神徳の中に生かされて在ると云うことの実感がそこにある訳です。そこからいわゆる無欲の状態と申しましょうかね。又は無我の状態と云うて良いかも知れません。又は我情のない生き方と云うのかも知れません。そこにわが身は神徳の中に生かされて在る喜びと云うものが感ぜられて來る。その喜びにおかげが伴って來ると云うのです。
商売が思わしくない。あの手を打つ、この手を打つと云う様なことをせずに、結局分からせて頂くところはです、自分自身が信心が足らぬからである。信心が足らんと云うことは本心の玉の磨き方かに精進してないと云うことである。
一寸調子が良ければもう、信心の油断をしておると云うことです。研くと云うことの中には全然思いを置いてないと云うことである。そこから又光がなくなって仕舞う。
だから信心は本心の玉を研くものだと、只難儀を感じる。困った時にはね、本心の玉を研くことを自分が怠って居るんだと、云うならば我情我欲を放させて頂く稽古をしていないのだと云うことになるのですから、そこに焦点を置けば良いのです。
あの手を打たにゃ、この手を打たなければと云った様なことはないのです。その先に神様があの手もこの手も打って下さる。
神様が打って下さる。あの手この手は、それこそ何処まで深い意味合があるか分からない。それを具体的に感ずるのが天衣無縫のおかげである。天衣無縫とは我情我欲のない生活だと云うことが言えましょう。そこには普通一般で云う、あちらは天衣無縫の人だと云うのではなくて、私が云う天衣無縫というのは必ず天衣無縫の生き方をすれば天衣無縫のおかげが受けられるんだと云うて私は一つの例をもって話しました。
そのお賽銭函の前に衡立が立っております。あれは、貴方の所は教会でないから御結界を御神前に置くことは出来ない。いけないと云うことを云われましてからね、椛目の時代に御結界を客室の四畳半に移したことがございます。そういう時代がありましたですね。此処に御結界を置いてはならない、教会じゃないからと云う風に云われた時代があったです。
それで全然違う楽室に持って行った。だからお広前の方から南側の方を向いて皆様がお取次をなさる。ところが楽室は月次祭の時には楽室に使いますけど、普通は私の控え室です。まだ光橋先生が在世中でしたから必ず毎日出て來る。そしてお茶をしておられた場所である。それでお結界がここ、お取次するところがここにあって、そこでお茶をしていると云うことではいけんからと云うので、あのお供えを頂いたのである。後慎二さんのお母さんが兄弟が話し合ってあれを田主丸の山口さんという、やはり御信者さんに頼んで出来ました。そこで私がデザインもするし、私が表の方を金にし裏の方を水色にしたと、丁度高柴さんとこの宅祭りの日に表具屋を呼んであれは注文したんです。「 」はどういう木がよかろうかと、うん「 」は桑の木がよかろう。私の座る方には金光様のこん(金)じゃけん金がよかろうと云うて金箔にした。後は私が態ら水色、紺。久留米の光橋先生の信心を水色と云う風に頂いとりましたから、後では光橋先生がお茶をするところですから、向こうの方は水色。私の方は金色が出る様に仕立てさせた訳ですね。
ですから、丁度畳の広さある訳です。それで私の四畳半の部屋は縦しに普通の四畳半と違いますから長い四畳半ですから、あれを立てますと四畳半をきっちり二つに分けることが出来る様にあれは出来ているんですから。
そして、御結界が上に持ってこられる様になっては、その御結界の後に皆さん御記憶にあるでしょうが、私の後に御結界の後に立てました。こちらへ参りましてからは、お広前のあそこに出来てきたお賽銭函が前にスポっと入る様に出来とる。台と台の間に、丁度ここのお広前の為に誂えた様にたった四畳半の部屋に誂えた衡立てがある。けれどもここが百畳敷のお広前になったけれども、その百畳敷に丁度誂えた様な感じで衡立てが立っておるでしょうが。天衣無縫と云うのはそういう様なもの。
大きい人が着たら大きくなり、小さい人が着たら小さくなると云った様な、しかも天が作った衣と云うので縫目がないと云うのが天衣無縫、そういうおかげ。おかげと云うものはどこまでも継がっておる。丁度このお広前に誂えた様に在る。実を云うたら百畳敷に置くのではなくて、四畳半の部屋に置くものであった。
それが百畳敷のここに置いておかしくないどころか、ここに誂えた様に在る。こういうのを天衣無縫のおかげと云うのですよ。
天衣無縫の生き方には天衣無縫のおかげが受けられる。だから、私共が大なり小なり本気で本心の玉を研くと言うことになり、しかもまめなとも信心の油断をすなと、仰ると云うことは本心の玉を研くことに油断をすなと云う事なのです。
だから、天衣無縫のおかげでなくて、反対に淋しくなったり苦しくなったりした場合は本心の玉を研き止めとる時だと思わにゃいけんです。玉を研くことに油断して居るときだと思わにゃいけんです。 ところが、研こうとも思わないから、油断も何もない。只ここへ参ってきてお願いをしておかげを受けると云う様なおかげもあります。また事実受けております皆さんが、本心の玉を研くものと思うておらんでもおかげを受けております。
だからそういう風なおかげは天衣無縫のおかげじゃない。おかげが、どこどこまでも続いて行くおかげじゃない。
その場で切れたおかげである。成程そういうおかげも願わなければならんことも時にはあります。願わなければおられんこともあります。けれども、実際は本心の玉を研くことに日々信心油断をせずにおかげを頂いて行くならばです。
我情我欲に取り組んで行くならば我情我欲が取れて行くだけに自分の心の中に喜び楽しみが生まれて來る。
昨日久留米の佐田さんが二度目のお参りされた時に丁度四時の御祈念になりましたから一緒に御祈念をなさって四時半に終りますから、ここに座らせて頂いたら佐田さん出て見えてからのお届けなんです。只今の御祈念中にこういうお知らせを頂きました。
日田の綾部さんが佐田さんに、これは私が着た手を通しておらん着物ですから貴方が着て下さいと沢山着物を持ってきて下さった。そして佐田さんそれを着られた。着て見られた。ところが皆さん御承知の様に綾部さんあんなに大きいでしょう。ですから、佐田さんが着られたら二人着る様に二人はいる様にあったという訳です。これは着られん。折角頂いたのにこれは着られんと一寸横を向いたところがね、まあお知らせですからね。鶴ですね、飛ぶ鶴、鶴がやはり着物を着ていると云う訳です。それが何とも言い様もない着こなしが良くて着物を鶴が着ていると云うことであった。
自分が着たらガバで二人はいるごとあるけれども、横にいる鶴と云う事。そこから生まれて來るところのおかげ。本心の玉を研いて行けば光が出て來る。本心の玉を研けば光が出ると云うこと。本心の玉を研いて行けばおかげと云う光がある。しかもそれは天衣無縫のおかげである。小さいものが着れば小さく、大きものが着れば大きくなる程しのものである。それを徳と云うのである。
お願いしたから、おかげを頂く。修行をしたからおかげを受けると云うおかげが、天衣無縫のおかげにまで進展していく。
ですから、これは一つのおかげの・・・云うならば私共の信心がどの程度進められておるか、育てられて居るかと云うバロメーターになるのである。
おかげと云うものは願わんでも頼まんでも神様はこの様なところまでおかげを下さると云うおかげが、いよいよ広がって行かねばそれが光が隅々を照らす様にその光が何処までも広がって行く様におかげの世界が広がって行くと云う。そういうおかげを頂かにゃいかんと思います。
その為に信心とは本心の玉を研くことと云うその思い込みがですね、信心とはおかげを頂く為であると云う観念を捨てなければいけんと云うこと。だからあらゆる事柄を通して私が研く以外にないんだ。私が改まる以外にないのだと、こう行かにゃいけん。ところが、自分がやり方が悪いけんちゅうてやり方ばかりを研究しよる。
例えば、商売事なら商売のこと、そげな事じゃ詰まらん。自分の在り方を研究せにゃきゃいかん。自分の在り方を研究せにゃいかん。自分の在り方を改めて行かにゃいけん。そして自分が改まる以外にないんだ。自分の在り方を改めて行かにゃいけん。そして自分が改まる以外にないないんだ。自分の我情我欲を取って行く以外にないんだ。限りなく美しくなって行く他ないんだと、思わせて頂くだけの信心が出来て行かなきゃいけん。そういう信心にならなければいけんと、云うことになるですね。 どうぞ。